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 Home > スプーンインタビュー 176「飯森範親さん(指揮者)」
 
 

いいもり・のりちか
桐朋学園大学指揮科卒業。ベルリン、ミュンヘンで研鑽を積む。フランクフルト放送響、プラハ響、ケルン放送響、モスクワ放送響など、一流オーケストラに客演。2001年、ドイツのヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団の芸術総楽監督 兼 首席指揮者に就任、日本ツアーを成功に導いたことは記憶に新しい。07年より山形交響楽団音楽監督に就任。
東京交響楽団正指揮者、いずみシンフォニエッタ大阪常任指揮者、オペラハウス管弦楽団名誉指揮者。06年、芸術選奨文部科学大臣新人賞、07年、山新3P賞平和賞を受賞。

 

指揮者 ◎ Iimori Norichika

飯森範親さん

日本人の優れた美的感覚やリズム
感覚をクラシックの伝統に結びつける
ことは絶対にできる、と思います。


指揮者の飯森範親さんは、山形交響楽団の常任指揮者を経て、現在は音楽監督を務める若きマエストロ。2001年より、ドイツのヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団の芸術総監督兼首席指揮者も務めるなど、その演奏は海外でも高く評価されています。
昨年から、飯森さんの指揮で山形交響楽団がモーツァルトの交響曲を全曲演奏する「飯森&山響モーツァルトシンフォニーサイクル『アマデウスへの旅』」が始まりました。去る2月10日、遊佐町中央公民館開館35周年記念として、山形交響楽団「鳥海春待ちコンサート」が開かれ、モーツァルトの交響曲第5番、26番、29番、ファゴット協奏曲の4曲が演奏されました。
開演前に、昨年12月、「山新3P賞平和賞」を受賞されたばかりの飯森さんにお話を伺いました。


2008年2月10日、山形交響楽団のリハーサルを終えた後、遊佐町中央公民館の前庭で、ファンに見守られながら、指揮者の飯森範親さんを撮影。その後、マエストロの控室にて、楽しくインタビューさせていただきました。




──飯森さんと、山形交響楽団との出会いについて聞かせていただけますか。

 1998年8月に、山形交響楽団の定期演奏会に招かれたのが、最初です。羽田健太郎さんがソリストで、「ラプソディー・イン・ブルー」を演奏しました。とてもいいコンサートになったものですから、その後、毎年のように呼んでいただくようになりました。
  2003年に、山形交響楽団から、常任指揮者に就任してくれないか、という打診を受けました。僕は、山形の自然や食べ物、地元の人の人柄といったものにすごく惹かれていましたから、その場で「やります」と返事をしました。もちろん、僕が喜んでお引き受けした最大の理由は、山形交響楽団の皆さんのやる気がすごく強く感じられたこと、定期演奏会のクオリティがすごく高いこと。それに尽きますね。
  最初の3年間は、常任指揮者を務め、現在は音楽監督をしています。昨年から、モーツァルトの交響曲を全曲演奏する「アマデウスへの旅」を始めました。モーツァルトの作品を通して、山形交響楽団のすべての方々の音楽の語法とアンサンブル能力をさらに高めていけるのではないか、と思っています。


──飯森さんの公式ホームページで、お母様(飯森文子さん)が雑誌「幼児開発」に連載された「ファミリー・カレンダー」を見つけてました。すばらしいお母さんだなあって思いました。

 ありがとうございます。母も喜ぶと思います。今日が母の命日なんですよ。2001年2月10日に、63歳で亡くなりました。母は、天真爛漫で、個性的で、人まねが大嫌いな人でした。僕たち兄弟が小学生の頃、ランドセルの色は普通、黒か赤でしたよね。ところが、うちは、弟が緑で、僕が茶色なんです(笑)。そういう母でしたから、友だちが持ってるからって、ねだっても、買ってくれませんでした。アイデアが豊富で、ここにある廃品で何ができるか、いつも考えていました。僕が3年生で、弟が1年生の頃、押し入れを利用して、勉強机を入れて、2人の小さな勉強部屋を作ってくれたりしました。5年生ぐらいになると、入れなくなりましたけど(笑)。母は、今考えてみても、かなり偉大な人でしたね。



飯森範親・指揮、山形交響楽団 ハイドン
「交響曲第85番」&シューマン「交響曲第4番」YSOlive・ 飯森範親・指揮、ヴュルテンブルク・フィルハーモニー管弦楽団
「イタリアン・フェイヴァリッツ」EXTON
いろいろなジャンルの音楽が好きな私たちは、子供の生まれる以前からよく音楽会には出かけておりました。誕生後もレコードを聴いたり、休日に弾く舅のチェロを子守歌にして眠っていた息子たちです。また、8ヶ月の頃に連れて行ったコンサートでも、演奏中は心地良さそうな寝息を立てていた長男でした。10ヶ月の頃には「ワシントン広場の夜は更けて」の曲が大好きで、レコードをかけると決まって、私のひざの上に立ち上がり、体を上下させては調子をとっておりました。4歳の時に、従姉のピアノに触れたのがきっかけで、自分から弾きたいと言い出し、逗子の先生のお宅に通い出しました。(略)息子は一度もやめたいと言ったことはありませんでした。

──飯森文子・文「音楽との出会い」
(「幼児開発」1988年3月号掲載)



──弟さんの飯森理信さんもオーボエ奏者として国際的に活躍なさっておいでですが、お二人は、お祖父様のチェロを子守歌にして育ったそうですね。

 父方の祖父は、飯森十郎といって、京都大学時代にチェロを弾いていたんです。その頃、朝比奈隆先生がヴァイオリンを弾き、一緒にカルテットを組んでいました。当時、京都大学で教えていらしたロシア人の指揮者、メッテル先生から、「朝比奈は指揮者になれ。飯森はチェリストになれ」と言われたそうです。戦争のため、祖父は音楽の夢を断念しましたが、趣味として、晩年までずっとチェロを弾いていました。
 祖父はクラシック音楽が大好きで、SP盤のレコードをたくさん持っていました。父は広告代理店の第一線で働いてきた人ですが、親戚にいずみたくという作曲家がおりまして、父ともすごく仲よかったものですから、父は、僕の祖父やいずみたくからクラシックの知識を得ていました。幼い僕にもいろいろ聴かせてくれていたようです。
  僕が小学生の頃、ルービンシュタインがピアノを弾いている、チャイコフスキーのピアノ協奏曲を聴いて、この楽器が弾きたいと思いました。それで、自分からピアノを習いに行ったんです。
  4歳か5歳の頃に、僕は「オーケストラの少女」という映画を見に連れて行かれたようなんですね。ストコフスキーという指揮者が出ています。僕は寝てたのか、見てたのか、すごく静かにしていたそうです。その時に見た指揮をするストコフスキーの姿が、たぶん脳裏のどこかに残ったんだろうと思います。10歳の時に、父がラヴェルの「ボレロ」を聴かせてくれたんですが、僕はこの「ボレロ」を聴くことによって、脳裏に焼き付いていた指揮者の映像がよみがえり、僕も指揮をしてみたい、指揮者になりたいと思いました。
  高校時代に高階正光先生に出会って、桐朋学園大学の指揮科に入学する道が開かれました。僕は、小澤征爾先生から習いたいと思ったんです。桐朋の付属音楽高校ではない、普通高校から、桐朋の指揮科に現役で合格したのは僕が初めてだそうです。指揮科の学生は僕一人でした。小澤先生の指導は厳しかったです。偉大な先輩ではありますが、当時を思い出すと、ただもう怖かったという印象しかありません(笑)。
  桐朋学園の指揮科の最大のメリットは、いろいろな偉大な先輩がたのレッスンを受けられることです。ですから、僕は小澤先生以外にも、秋山和慶先生、尾高忠明先生、井上道義先生にも習いましたし、客演教授として招かれていたジャン・フルネ先生にも教えていただきました。同じ曲でレッスンを受けたとしても、それぞれの先生は違うことをおっしゃるんです。その時は、疑問に思うこともありましたが、今ようやく、おっしゃったことがわかるような年代になったかなあ、と思います。
  大学4年生の時、指揮者コンクールで優勝し、副賞の海外留学助成金でドイツに行き、ベルリンフィルの聴講生として、勉強させていただきました。カラヤン先生がご健在の時です。その後、文化庁派遣芸術家在外研修員制度に選ばれて、2年間、ドイツ・バイエルンの州立歌劇場で、ヴォルフガング・サヴァリッシュ先生に師事しました。サヴァリッシュ先生は、オペラをすべて知り尽くしている、すばらしい指揮者ですから、練習の時の先生のひと言ひと言がすべて、今の自分の糧になっていると言っても過言ではありません。

去る2月10日、遊佐町中央公民館開館35周年記念・山形交響楽団「鳥海春待ちコンサート」のリハーサル・演奏風景より。モーツァルトの交響曲第5番、26番、29番、そして、山形交響楽団の団員である高橋あけみさんをソリストに、ファゴット協奏曲が演奏されました。


──指揮者になるためには、どのような資質、力量が必要とされるのですか。

 指揮者はすべての演奏者の音を聴き分けられないといけませんから、ソルフェージュ能力と、耳の良さは絶対に必要不可欠です。また、基礎的な音楽的能力が、ヴァイオリンとかピアノといったソリストの方々と同等かそれ以上でないと、難しいでしょうね。そういうことが備わって、指揮者になれる可能性が出てくるわけです。また、指揮者として独立すると、経営手腕も問われますし、オーケストラのメンバーはそれぞれみんな意見が違うわけですから、その意見をある程度集約して、一つの方向に導いていくカリスマ的な要素や、コンダクト能力、ディレクティング能力も求められると思います。
  日本人が海外で演奏する場合、その国のアイデンティティーに同化してしまう人と、日本人であることを強く意識して、それをアピールしていく人と、2つのタイプがあります。僕はどちらかというと、後者なんです。ヨーロッパに行ったことで、僕は日本人のアイデンティティーの凄さを、改めて自覚しました。そして、自分たち日本民族は、ヨーロッパの人たちにも決して負けない、と思いました。根底に流れるヨーロッパ音楽の伝統は、日本人にはないですから、学んで、真似るしかないわけですが、その伝統をもとに、日本人の優れた美的感覚やリズム感覚を結びつけることは絶対にできる、と僕は確信しています。2001年、ドイツのヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団の芸術総監督兼首席指揮者として仕事を始めた時、特にそう感じました。われわれ日本人にしかできない、われわれの感覚というものが絶対あるんです。僕は、ヨーロッパでもアメリカでも、そういうアプローチでやってきました。そして、クラシック音楽という偉大な伝統を持つ音楽のすばらしさを、世界中の、特に若い世代の人たちにも、感動をもって聴いていただけたなら、と願っています。

(スプーン2008年3月号に掲載)  
佐藤晶子=取材・文
text by Satoh Akiko
石丸篤司、和島諭=写真
photograph by Ishimaru Atsushi,Wajima Satoru
取材・撮影協力=山形交響楽団、遊佐町中央公民館

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