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 Home > スプーンインタビュー 174「池田真魚さん(土門拳長女・土門拳記念館館長)」
 
 

 

土門拳長女・土門拳記念館館長 ◎ Ikeda Mao

池田真魚さん

土門の写真はどれも好きなんです。
土門が好きで惚れ込んで撮っている写真は、こちらも気持ちが動きます。


土門拳記念館館長の池田真魚さんは、酒田市名誉市民の写真家、土門拳さんのご長女です。
「SPOON」創刊号に登場してくださった初代館長、写真家の三木淳さん、2代目館長、渡邊好章さんに続いて、3代目館長に就任された、土門拳夫人、土門たみさんの亡きあと、4代目館長に就任された池田真魚さんは、今年3月18日、土門拳文化賞授章式に出席するため、酒田を訪れました。1996年4月号に母娘でご登場くださったことも、忘れがたい思い出です。
時は折しも雛まつり。授章式を終えたあと、土門拳さんが生涯にたった一度だけ撮影なさったというお雛様「次郎左衛門雛の立ち雛」の写真の前で撮影させていただいた後、父・土門拳と、ご自身の人生・写真観などについて、楽しくお話を聞かせていただきました。

いけだ・まお
昭和15年(1940)、東京都中央区に、土門拳・たみ夫妻の長女として生まれる。
父は、写真集『古寺巡礼』『ヒロシマ』などで名高い、酒田市出身の写真家で、酒田市名誉市民。東京写真短期大学卒業後、結婚。3人の息子を子育てする中、共同通信のカメラマンである夫が35五歳の若さで逝去。土門拳写真研究所に勤務。昭和58年、土門拳記念館開館に伴い、理事に就任。初代館長・三木淳氏、2代、渡邊好章氏、3代・土門たみ氏に次いで、4代目館長に就任。株式会社土門拳写真研究所主宰。




── 真魚さんのお名前は、土門拳さんが命名なさったのですか。

 真魚というのは、弘法大師の幼名です。土門はその頃、弘仁時代(平安初期)の仏教彫刻に凝っていて、弘仁彫刻に造詣の深い美術評論家の水澤澄夫先生とよく室生寺を訪ねていました。子どもが生まれるというので、水澤先生に相談したところ、いろいろ素敵な名前を考えてくださったらしいんですが、生まれてきた赤ん坊を見たら、目はギョロギョロしてるし、とってもそういう名前をつけるような顔じゃなかった(笑)。だから、「真魚」になった、ということのようですよ。すぐ下の妹は真菜、その下は真耶。真耶夫人は、お釈迦さまのお母様の名前ですからね。みんなそんな関係で、土門がその頃、弘仁彫刻に凝っていたせいでしょうね。
  私は名前負けしていると言われています。写真にしても、文章にしても、土門の才能は全然、私に遺伝しなかったんです。だから、土門の全集とか作品集が出るたび、出版社から「何か書いてください」と言われるんですけど、私は一切、書かないことにしています。


── 土門さんのお母様は、酒田市鷹町の安島家の出で、土門さんはそこで誕生なさったのだそうですね。

 ええ。拳ちゃん一筋のおばあちゃんでしたからね。私は、そのおばあちゃんにどんどん似てきましたよ。妹は、母のほうに似ています。亡くなった、真ん中の子が、1番父に似ていたそうです。土門は子どもの写真をたくさん撮りましたけど、その亡くなった子に面差しが似ている子に惹かれて、撮っています。写真を見ると、ああ、そういう子を撮ってるなあって感じますね。
  わが家は、東京都中央区の明石町にありました。2階屋の1戸建てなんですけど、落語に出てくる長屋みたいなものですね。1階に6畳と3畳、2階に6畳があって、2階は、土門の書斎兼寝室兼客間なんです。そこに、おばあちゃんと両親と子どもたちが住んでいたんです。土門は、人恋しがりやで、お客さんが帰りそうになると、「まだいいだろう。泊まってけ」って言うような人だったんですね。あとから考えると、「そんな場所あったかな」って、みんなで不思議に思うくらいなんです。そんな家で育ったから、土門の古いお弟子さんから「真魚ちゃん、おまえのおむつ、替えてあげたことあるよ」って言われたことがありますけど(笑)。



2007年3月18日、第13回酒田市土門拳文化賞授章式にて。文化賞はセイリー育緒、奨励賞は荒多恵子、佐藤昭夫(酒田市)、鎌田勉の各氏が受賞。賞状は阿部寿一酒田市長より贈呈された。選考委員は、江成常夫、大西みつぐ、藤森武の各氏。土門#記念館館長・池田真魚さん、同理事長・相馬大作さんも列席されている。


 真魚の写大希望については、真魚によると土門は賛成も反対もしなかった。遊んでぶらぶらされても困るし、女性も仕事をもったほうがいいという主義だった。(中略)真魚は土門の考え方や美に対する鑑賞眼の影響を強く受けていた。
  1960年(昭和35)年、土門は奈良へ真魚を同行させているが、「これで、親のひいき目かも知れないけれど、いい素質を持ってるし、おもしろい子だよ。……ぼくの見るところじゃなかなか鋭くていいよ」
(「父娘対談・一家あげて土門ファン」「カメラ芸術」1961年1月号)と真魚の才能を評価している。
──阿部博行著『土門拳──生涯とその時代』より
1995年9月30日、土門拳記念館前庭にて。
土門拳が愛したミヤコワスレを植栽する夫人で同館長(当時)の土門たみさんと、長女で同理事(当時)の池田真魚さん。お母様の土門たみさんは、1996年4月号のSインタビューに登場してくださいました。



── 土門拳さんは、家庭では、どんなお父さんだったのですか。

 写真家というのは、肉体労働と精神労働の両方でしょう。現場に行かなくてはならないから、家にはいられない。家にいる時は、本を読んでいるか、寝ているかでしたね。だから、クリスマスとかお雛様とか、年中行事をしたことないですよ。父は子どもたちの誕生日も忘れているんじゃないかな。誕生祝いをしてもらった記憶もないですし。
  私は一番最初の子だから、かわいくてしょうがなかったんでしょうね。どこか出掛ける時は、抱いて連れて行ったりしていたようですけど、上野の博物館に連れて行って、展覧会を観ている間、そこらへんのベンチに寝かせておいて、忘れて帰りそうになったことがあったそうです(笑)。愛情はいっぱいあったんでしょうけど、とにかく家にいないですからね。そういう意味では、土門は家庭人じゃないですね。
  ただ、夏休みの宿題で、絵を描いていると、そばへ来て、「真魚、物の影は黒だけじゃないだろう。グレーでもあり、ブルーでもあり、いろんな色に見えるんじゃないの?」って言って、勝手にちゃっちゃと筆を入れちゃったりしていましたね。土門は絵が好きで、元気な頃は、小さなスケッチブックをつねに持っていて、電車の中でもよくスケッチしていましたから。
  高校を卒業すると、写真学校に進みました。今は東京写真工芸大学になりましたけど、その頃は東京写真短期大学と言いました。父も気にはしていたんでしょうね。「女の子も手に職を持つのがいいんじゃないの」とは言っていました。だから、勧めたんだろうと思うんですが、でもその頃、ほかの人が土門に弟子入りしたいなんて言うと、「写真は、教わってできるものじゃない。それよりも大学へでも行って、勉強しなさい。本を読みなさい」と言っていたんです。父は、自分が機械に弱いから、科学的に写真を撮れる技術が娘に身につけば、と期待する気持ちがあったのかも知れませんけどね(笑)。
  父は私によく「男だったらな」って言っていました。当時は女の人が写真の仕事をさせてもらえる場がなかったですからね。父の撮影旅行に同行したこともあります。学校の夏休みとか冬休みになると、「来るか?」っていう感じで。私は力持ちだから、もっぱら荷物持ち。最初に行ったお寺は、室生寺、法隆寺でしょうね。父は、撮る時もありましたし、撮らない時もありました。お寺に着いたら、やっぱり、見てる。「よく見なさい。本物をよく見なさい」と言う人でしたね。
  昔はカメラ自体もよくなかったし、そう簡単に写らなかったから、かなり努力の要る時代でした。父の仕事を見ていても、写そうという時の心の構え方が違います。仏像を撮る場合も、単なる美術品としては見ていない。その背景にある信仰心とか、それを作った人の気持ちや魂が絶対あるはずだから、自分はこの仏像の何が気に入って、どこが撮りたいかということを、ずーっと考えて、見て、撮っていました。

── その後、真魚さんはご結婚なさって、ご両親のもとを離れたのですね。

 主人は、共同通信のカメラマンだったんです。土門は娘を嫁に出したくなかったのか、主人に「真魚は、家庭に向かないし、奥様になるような女じゃないから、考え直したほうがいいよ。やめたら」って言ったそうです(笑)。
  結婚して、子育てに追われて、10年経った時、主人が亡くなったんです。それで、麹町にある土門拳写真研究所で働かせてもらうことになりました。酒田に土門拳記念館ができてからは、版権業務を代行していただいていますので、現在は開店休業に近い状態ですが、東京に事務所があったほうが便利かなと思うものですから、今でも自宅から通って仕事を続けています。
  酒田に初めて来たのは、記念館の準備段階の頃でした。三木淳先生も熱心に関わってくださいましたし、引っ込み思案で有名な私も理事を務めさせていただきましたから。こちらは、都会と違って、目線がずーっと水平なんですね。縦の空じゃなくて、横の空が見える、静かで良いところだと思います。

── ご自分も写真を撮りたいと思ったことはありませんでしたか。

 何を撮っても追い抜けない人がすぐそばにいたのでは、同じ職業には就けないんじゃないでしょうか。土門拳の写真は、やっぱり、すごいと思います。私は残念ながら、土門の才能を受け継ぎませんでしたけど、土門の写真はどれも好きなんです。神護寺にしても、室生寺にしても、『風貌』にしても、子ども写真にしても、土門が好きで、惚れ込んで撮っている写真は、やっぱり好きです。それは、土門が好きなものしか撮らなかったからじゃないでしょうか。美にしても、かわいさにしても、自分の気持ちに沿って、入り込めるもの、気持ちが動いたものしか撮らなかったから、こちらも、その写真を見て、気持ちが動くんだと思います。
  2009年には、土門拳の生誕100年を迎えます。その記念として、まだ企画段階なんですけど、土門の写真の展覧会を全国数ヵ所で開催できたら、というお話もいただいています。実現できたら、父も、きっととても喜んでくれるだろう、と思っています。

(スプーン2007年12月号に掲載)  

佐藤晶子=取材・文
text by Satoh Akiko
斉藤貴子=写真
photograph by Saito Takako
取材・撮影協力=酒田市、財団法人土門拳記念館

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