毎日の暮らしに、ほんのひとさじの夢を探して、
私たちはこの街に住むあなたを応援します。
スプーンネット
トップページへ 特集 バックナンバー
 Home > スプーンインタビュー 173「立木義浩さん(写真家)」
 
 
 

写真家 ◎ Tatsuki Yoshihiro

立木義浩さん

「おれがモノクロ写真を好きなのはどうしてですか」って、むしろぼく自身が聞きたいくらいなんだ。

立木義浩さんは、戦後日本の写真界を鮮やかに疾駆していらした写真家です。
NHK朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」では、徳島の立木家の物語が描かれていましたね。長兄はお父様の跡を継いで写真館の主となり、立木義浩さんと弟の立木三朗さんは、写真家として活躍を続けておいでです。
昨年10月1日、庄内空港開港15周年記念「庄内の風景と魅力写真コンテスト」の授章式が行われ、審査委員長を務めた立木さんは、庄内空港を訪れました。
式典の後、写真撮影(右手に持っていらっしゃるのは、芝生で拾った松ぼっくりです)。
その後、庄内空港ターミナルビル内でお話を聞かせていただきました。

たつき・よしひろ
1937年(昭和12年)、徳島県に生まれる。58年、東京写真短期大学(現・東京工芸大学)卒業。アドセンター設立時にカメラマンとして参加。69年、フリーランスとなる。広告・雑誌・出版など幅広い分野で活躍。写真集『イブたち』『私生活/加賀まり子』『家族の肖像』ほか、著書・作品集多数。主な個展に、99年「東寺」「親と子の情景@」、01年「KOBE・ひと」、02年「およう」「一滴の旅情(ハウステンボス)」、03年「桂林」「旅の途中で」、04年「里山」、05年「ひと まち 笑顔 こうべ」「イッセー尾形 in GERMANY」など。




── 徳島県のご出身だそうですね。ご兄弟三人が写真の世界で活躍なさっておいでですが、子ども時代の心に残る原風景というのはありますか。

  ぼくの家は、明治時代から続いてきた写真館なんです。その頃、写真屋は珍しい職業だし、街の名士でもあって、祖父は徳島県の県会議員をやっていたりもしました。家は3階建てで、とんがり帽子のような屋根があって、時計が飾ってありました。煉瓦作りで、ツタが絡まっていて。3階に暗室があって、親父が暗室作業を見せてくれたことがあったの。それは、ぼくが幼稚園に行くか行かないかぐらいの時だったんだけど、親父に抱っこされて流し台を見たら、白い紙を入れると、女の人の像がファーッと現れたっていうのが、写真との最初の出会いかも知れないね。でも、それは戦前の話だから、もう、うっすらとしか覚えてないんだけど。
  戦後はもう、食うのが大変で。徳島は空襲で焼けちゃったからね。親父とお袋と祖父は徳島に残って、祖母とぼくたち兄弟3人は、名西郡の神領村に疎開した。兄貴が小学校六年生ぐらいで、ぼくが2年生ぐらいかな。兄貴は中学に入るための補習授業があったから、夜の弁当をぼくが家から届けてた。1里の距離を歩いてね。街灯がないから、月が出てなければ、真っ暗なんだ。弟は7つ下だから、1歳ぐらい。学校から帰ると、ぼくは弟をおんぶして遊んでた。だから今でも、兄弟はおれが育てたって言ってるんだけどね(笑)。
  終戦の時は小学校2年生だった。疎開先から帰ってくると、徳島は焼け野原になっていた。小さなバラックを建てて、家族みんなで住むことになったんだけど、前にわが家が建っていた近くに、タイル貼りの風呂が残っていた。そこに水を張って、薪を拾ってきて、親父と2人で入ったの。周り一面焼け野原だから、徳島の駅からずーっと2駅くらい、SLが走るのが見えたのね。
それが、ぼくの原風景で、すべてはそこから始まってると思うんだけどね。


── プロのカメラマンとして写真を撮り始めたのは、いつ頃からですか。

  大学生の時、有楽町にフジフイルムの「フジフォトサロン」ができて、開設まもない頃、そこで一家で写真展をやったの。親父、お袋、兄弟3人の全員が写真を撮って、並べたの。親父は田舎の営業写真館の主だけど、趣味の領域でクローズアップの写真も撮っていたから、親父をみんながサポートする感じでやったんだ。ラッキーだったのは、写真家の細江英公さんに写真の並べ方を相談したら、堀内誠一さんを紹介してくれたんだよね。
  昭和33年に東京写真短期大学を卒業すると、堀内さんがアートディレクターをしているアドセンターに入社した。堀内さんは、当時、ミノルタの「ロッコール」という雑誌の仕事もしていたので、後日、「VIVO」というグループを結成する、奈良原一高、佐藤明、東松照明、細江英公といった若手の写真家が、堀内さんを訪ねて、しょっちゅうアドセンターに来ていた。だから、ぼくはその時代の流れを少年の目でつぶさに眺めていたわけだよね。 そこは、社員が7人しかいない会社の、ぼくが8人目だからね。スタッフカメラマンとして採用されたんだけど、写真部がなかったから、入社してすぐ、写真部長なの。「明日撮影だよ」「カメラは?」「自分で買いなさいよ」っていう感じでね(笑)。それでいきなり「週刊平凡」の「ウィークリーファッション」というファッションページを撮ったんだからね。1発目はゲリラ戦法で、ラッシュ時の東京駅に行って、モデルを二人立たせて。1人は芳村真理ちゃん、当時の一番の売れっ子だよね。スローシャッターで、周りの人が降りていくのをブラして撮るという斬新な手法でやってみた。アート・ブレーキーが初来日した時は、新宿厚生年金会館の舞台で、日本のモデルとアート・ブレーキーを一緒に撮った。開演前に撮っちゃうんだからね、めちゃくちゃな話なんだけど(笑)。でも、みんな、協力的にやってくれたと思うよ。



昔の自分の写真を見て、どうこうっていうことはないんだけど、振り返らざるを得ない時代になってきたのかも知れないね。最近は、1960年代だの昭和30年代の話がばんばん出てくるからね。図らずも、2006年10月に新設された「FUJIFILM フォトエントランス日比谷」では、その1発目の展示として、ぼくの「舌出し天使」の写真展が開催されることになった。これは、「カメラ毎日」1965年4月号に巻頭56ページも使ってやったんだ。今では考えられないようなページ数なんだよ。あの頃は、そういう無謀なことをしていたわけだ。
 
立木義浩さんの写真集より。 上段左から、『THE PORTRAITS OF SATOYAMA 里山の肖像』2004年、『人間列島』2006年・JCIIフォトサロン、『風の写心気』2006年・日本写真企画、『hi-bi 火火』2004年・ゼアリズエンタープライズ、『見晴らしのいい時間』2006年・VERDE MARE。
今まで一番気に入っている写真集は何ですかと立木さんにお聞きしたら、「次のやつってことだな(笑)」。
 


── ということは、先輩とか先生なしで、写真の仕事を始めたわけですか。

  だから、すごく遠回りしてるの。ぼくは、教わるのもそんなに好きじゃないし、自分で解決していこうと思うから。技術の習得には時間がかかったね。 その後、カメラ雑誌に仲間が集うことになったり、寺山修司や和田誠と出会ったりしながら、時代と遭遇していくわけだけど。1960年代の、日本が変わろうとしていく時代だったし、写真が、そんなに市民権を得ているとは思えない時代だったから、おれたちにも、何かできるんじゃないか、何かしようっていう雰囲気があって、それが活気を生んでたのかもわかんないね。
  だから、いっときは調子に乗って、写真で何でもできると思ってたんだよ。でも、意外と何もできなくてさ。1枚の写真で、戦争が終わったりもしなければ、困った人が救われたりもしない。ただ、その1枚の写真は、不特定多数が見るもので、それはたいていの場合、印刷されて伝わるものだから、雑誌メディアが重要になる。同時に、ぼくたちは高度成長期に遭遇しているから、コマーシャルの分野にも足を踏み込んでいる。だから、土門拳や木村伊兵衛といった上の世代の人たちが、報道写真からドキュメントへという流れの中で、人生を賭けて、命を賭けて、何かを撮るっていうのと、ぼくらとでは、出発点が違うんだ。写真に対する考え方や美意識は時代によって変わっていく。だけど、写真はやっぱり写真だし、写真にしかできないものがあるはずだ。それは何かということを考えつつ、長い間、撮り続けてきたわけだけどね。
  ぼくは写真を愛しているんだ。写真というのは、ぺらぺらの薄い長方形の紙なんだけど、ポンと出されると、たとえ昔撮った写真であっても、新しい現実としてそこに提示されるんだよね。そのすごさというのは、ほかにあまりないと思う。それでやっぱり、ぼくはモノクロが好きなのね、基本的には。

── 立木さんが、特にモノクロ写真がお好きというのは、どうしてですか。

  だって、写真が最初に発明された時は、モノクロだったんだよね。カラー写真というのは、肉眼で認識した色をそのまま、人工的にカラーで再現する。一方、モノクロ写真は、肉眼では色を認識できるのに、モノクロのフィルムを使って写すことによって、白と黒の諧調に変化させる。眼で見た色がモノクロに写るぐらいの変化の方が、強いインパクトで何かが伝わるってことが、たしかにあると思うんだ。色が剥落しているのにも関わらず、あるいは、色が剥落しているがゆえに、モノクロ写真には強い表現力がある。そして、それは滅びないのね。これは、すごいことだと思う。毎年ノーベル賞をあげたいぐらいの話なんだ。「モノクロ写真、あなたはすごい」って絶賛するべきものなんだ。だけど、そのことを的確に言ってくれた人はいないからね。むしろぼくが聞きたいね。「おれがモノクロを好きなのはどうしてですか」って。 ぼくが今までシャッターを押してきた無数の瞬間のすき間には、網膜に焼き付けられた、すごい写真が山ほどある。撮れなかった。遅かった。失敗したっていう無念さがある。その総重量が、ある日、出てくるといいなと思う。
  写真は、思想がなければ写せない。写真は、撮る人の内面を語らざるには措かないものではあるけれど、逆説的に言うと、写真には外面しか写らない。だったら、外側をちゃんときっちり写していくことを突き抜けたら、内面に届くのか。死ぬまでにわかったらうれしいし、それをやっぱり写真で見せたいな、と思ってはいるんだけどね。

(スプーン2007年10月号に掲載)  

佐藤晶子=取材・文
text by Satoh Akiko
斉藤貴子=写真
photograph by Saito Takako
編集協力=菅原みづえ
取材・撮影協力=庄内空港ビル株式会社

◆バックナンバーもチェック!

(2007年10月号)
立木義浩さん
写真家

(2007年11月号)
池田真魚さん
土門拳長女・土門拳記念館館長

(2008年1月号)
八巻元子さん
料理季刊誌「四季の味」編集長


(2008年2月号)
江本勝さん
I.H.M.総合研究所所長

(2008年3月号)
飯森範親さん
指揮者

(2008年10月号)
今田龍子さん
「婦人画報」編集長



pageup▲



月刊SPOON編集部

山形県酒田市京田2-59-3 コマツ・コーポレーション内
電話 0234(41)0070 / FAX 0234(41)0080


- 会社概要 - お問い合わせ -
Home Page上に掲載している写真・テキストの著作権は、SPOON編集部およびその著者に帰属します。
無断転用(加工・改変)、ネットワーク上での使用等はご遠慮下さい。
このサイトに掲載しているものは全て、個人でお楽しみ頂くためのもので、著作権は放棄しておりません。