── 徳島県のご出身だそうですね。ご兄弟三人が写真の世界で活躍なさっておいでですが、子ども時代の心に残る原風景というのはありますか。
ぼくの家は、明治時代から続いてきた写真館なんです。その頃、写真屋は珍しい職業だし、街の名士でもあって、祖父は徳島県の県会議員をやっていたりもしました。家は3階建てで、とんがり帽子のような屋根があって、時計が飾ってありました。煉瓦作りで、ツタが絡まっていて。3階に暗室があって、親父が暗室作業を見せてくれたことがあったの。それは、ぼくが幼稚園に行くか行かないかぐらいの時だったんだけど、親父に抱っこされて流し台を見たら、白い紙を入れると、女の人の像がファーッと現れたっていうのが、写真との最初の出会いかも知れないね。でも、それは戦前の話だから、もう、うっすらとしか覚えてないんだけど。
戦後はもう、食うのが大変で。徳島は空襲で焼けちゃったからね。親父とお袋と祖父は徳島に残って、祖母とぼくたち兄弟3人は、名西郡の神領村に疎開した。兄貴が小学校六年生ぐらいで、ぼくが2年生ぐらいかな。兄貴は中学に入るための補習授業があったから、夜の弁当をぼくが家から届けてた。1里の距離を歩いてね。街灯がないから、月が出てなければ、真っ暗なんだ。弟は7つ下だから、1歳ぐらい。学校から帰ると、ぼくは弟をおんぶして遊んでた。だから今でも、兄弟はおれが育てたって言ってるんだけどね(笑)。
終戦の時は小学校2年生だった。疎開先から帰ってくると、徳島は焼け野原になっていた。小さなバラックを建てて、家族みんなで住むことになったんだけど、前にわが家が建っていた近くに、タイル貼りの風呂が残っていた。そこに水を張って、薪を拾ってきて、親父と2人で入ったの。周り一面焼け野原だから、徳島の駅からずーっと2駅くらい、SLが走るのが見えたのね。
それが、ぼくの原風景で、すべてはそこから始まってると思うんだけどね。
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