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 Home > バックナンバー > 「庄内庭園探訪」 > 浜畑の寄暢亭を訪ねて


月刊「SPOON」2004年2月号掲載

酒田市浜畑に小山家別荘「寄暢亭(きちょうてい)」が建てられたのは明治23、4年頃。名園の誉れ高いその庭園は、「清亀園」を手掛けた庭師、山田挿遊の最高傑作ともいわれています。昭和56年より、株式会社本間ゴルフの所有となり、現在一般公開はされていませんが、同社のご厚意により、落葉を終えた初冬のある日、探訪させていただくことができました。

:::::  その11 :::::
酒田市


かつて、この千坪の敷地には、
池を囲むように茶室、
庭を座観する建物「寄暢亭」、貸荘、
二階建ての四阿があった。

 もう、いつ雪になってもおかしくはない。そんな初冬の日に訪ねた庭園、「寄暢亭」。石段を一歩一歩踏みしめて降りたその向こうには、深く勇壮な自然の空間が広がっていた。私は、その場に佇んで、感嘆の声をあげずにはいられなかった。紅葉の季節が過ぎたとはいえ、常緑樹の緑が充分に庭の風格を支えている。冬枯れの庭は、庭本来の姿が表れ、最も庭師の技量が問われる時である。
「寄暢亭」は、明治23、4年頃、酒田の素封家、2代小山太吉の別邸として建築造園された。太吉は古書画を愛する趣味人。当時の小山家は、82町歩の田畑を持つ庄内有数の大地主であった。現在は「本間ゴルフ」所有で、一般公開はしていないにもかかわらず、ご厚意によって実現した探訪である。昭和56年、小山家から譲られた後は、同社の会議や宿泊の場や、迎賓館としての役目を担ってきたのである。
  造園にあたったのは、地元で第一人者とされた庭師、山田挿遊である。挿遊は、天保元年(1830年)、「興屋の山」と呼ばれる酒田の浜畑に生まれた。父が庭師であったかどうかは不明であり、庭師となった経緯もまた知ることができない。ただ、挿遊が興屋の山一帯に50人に及ぶ門人をかかえ、彼らの生活を支えていたことは確かである。かつて貧しい地域とされたここの人々が、「興屋の山の人間は、飢えても盗まぬ」といわれたのは、挿遊の精神性と統率力とが、この地に浸透していたということになろう。
  挿遊は、16歳で父を亡くし、妻、きのと結婚したのが24、5歳とすれば、「京都で修行したらしい」とされるのは、それ以前なのだろう。酒田には、弘化2年(1845)、挿遊15歳の頃まで、浄福寺15世公海が、公海派として、造園の一派を成していたとされる。はたして、この影響を享けたかどうか。
  挿遊作の庭は、浜田の「清亀園」、加茂屋秋野家、八幡町前川大滝勘太郎家、遊佐町石垣茂左ェ門家などがあり、中でも「寄暢亭」は名園の誉れが高い。この庭を手がけたのは、挿遊61、2歳の頃である。庭師として、集大成ともいえる仕事として取り組んだのだと思う。
  息をのむ生命力に惹き込まれ、庭園を巡る。もともとが起伏の激しい土地であったのだろう。高低差のある斜面を築山としたすり鉢状の構成である。かつて、この1000坪の敷地には、池を囲むように、茶室、庭を座観する建物「寄暢亭」、お祝い事などに利用された貸荘、2階建ての四阿があった。池の中島をつなぐ八ツ橋と石橋は、趣向のひとつであろう。挿遊作の「清亀園」でも、この庭でも、橋は、点景としての役目を充分に果たし、作者のデザイン力を感じとることができる。
  石組みの力強さも特徴のひとつ。地元の石を豊富に使い、地形に沿って配石しているのは、自然の景に重きを置いたためであり、安定感ある庭となっている。石の筋目「節理」。横に、斜めに、動きだそうとする石のエネルギー「気勢」。このふたつを駆使するのは、庭師の手腕である。
  松、杉、タブ、ドングリ、花梨、桜、竹といった樹木に覆われていることが、庭に陰影を作り出している。これは、100年以上も前の植栽であり、今の高さはなかったはずである。これだけの葉が擦れあうように茂っていれば、陽を分けるように、なずみあっているということなのだろう。
  宮大工の西岡常一氏が、弟子たちにこんな話をした。「建物は良い木ばかりでは建たない。北側で育ったアテという、どうしようもない木がある。しかし、日当たりの悪い場所に使うと、何百年も我慢する、良い木になる」と。どんな木にも、生きている以上、その木が負うている役目があるということは、人にも言えることなのだと思う。この庭に立つと、そんな励ましさえも響いてくる。「いかに人の力つよくとも 庭の形はつくりをみせるものにあらづ つくり半分 育て半分」(流政之『作庭口伝』)。挿遊は、作庭の行方を自然と時間にゆだねたのかもしれない。 かつて「寄暢亭」の主であったのは、元酒田市長、小山孫次郎氏である。孫次郎さんは、鶴岡の成澤家出身。書家、黒崎研堂の孫にあたる。東京帝国大学卒業後、小山家の長女、光子さんと結婚、小山家の人となる。その後、酒田市長として、その才覚を発揮して、市政にあたったことは周知のとおりである。酒田市高見台の小山家で孫次郎さんと三女、放上夏江さんにお話を伺った。
  夏江さんは、この庭を遊び場として育った。池でザリガニとりをしたり、オタマジャクシを見つけて遊んだという。水面には、白やピンクの睡蓮が咲き、池の端には、アヤメや杜若、躑躅が咲く頃は、花の少ないこの庭の最も華やぐ季であったとい
う。中島の百日紅。花期の長いこと、サルもすべるほど木肌が滑らかなことから、この名がある。濃い桃色の可憐な花が、この庭の彩りであることは、今も変わらない。
  春には、桜の木の下で、家族揃って記念写真を撮ったことも、忘れられないひとこまであるという。その中の美しい母、光子さんは、もう亡き人である。おそらく、夏江さんは、その頃の母親の年齢と自身を重ねたのではないだろうか。風の強い酒田では、晩秋になると、落ち葉の掃除が日課となる。ようやく掃き終えた場所に風がまた葉を運んでくる。冬、雪の降り積む頃は、住宅とした母屋から「寄暢亭」まで、雪かきをしながら、たどり着くという日々。「母は、どんなに大変だったか」と、夏江さんは、言葉を詰まらせた。
  この庭の手入れに通った庭師を、夏江さんは「またちゃ」と呼んでいた。おそらく挿遊一門の弟子、小野山又蔵ではないかと思う。酒田で「ど」「ま」「ちゃ」は、それぞれ「殿」「様」「さん」の愛称なのである。 挿遊の晩年は、妻に先立たれ、跡継ぎの長男、銀作を失うなど、家庭的には恵まれなかった。それでも、弟子たちの信望は篤く、明治28年、興屋の山の稲荷神社境内に寿碑が建立され、今に伝わっている。その年、挿遊は養子を迎えるが、数ヶ月後、明治29年4月15日逝去。「人庭一如」、庭造りに生涯をかけた山田挿遊、享年67歳であった。
  この庭は、住む人の、訪れる人の、多くの希望や夢を見守り続けてきたにちがいない。量感のある石組みが、共生する緑が、さまざまな想いを映すかのような池が、どれもが瀟洒というのではなく、調和していることで、人々を和ませてきたのである。たとえるならば、「夢のあと」であろうか。「寄暢亭」は、静寂を堪える緑陰の名園である。
多くの人の夢を見守り続けてきたにちがいない「夢のあと」。
「寄暢亭」は、今もなお、静寂を堪える緑陰の名園である。
 
寄暢亭

【所有者住所・電話番号】
株式会社本間ゴルフ 酒田工場
酒田市宮海字中砂畑27-18
Tel.0234-34-2334

 小山家別荘「寄暢亭」は、2代小山太吉によって、明治23、4年頃、酒田の浜畑(現在の御成町)に建築造園されました。小山家は船場町で回船問屋を営む豪商で、庄内有数の大地主として知られていました。
 その庭園を手掛けたのは、酒田の名庭師、山田挿遊(1830〜1896)で、伊藤珍太郎著『酒田の名工名匠』によれば、酒田の「清亀園」、新井田川畔の加茂屋秋野家、八幡町前川の大滝勘太郎家、遊佐町宮田の石垣茂左ェ門家などの庭園も、挿遊が手がけたものです。明治29年、酒田を来訪した真宗大谷派の元執事、渥美契縁師が「寄暢亭」と名づけました。池の周囲には、庭園を座観できる別荘「寄暢亭」、茶室、2階建の四阿があり、後年、婚礼会場などに使用された貸荘や、戦後、中町から居を移した小山家の居宅も旧国道に面して建てられていました。昭和56年に株式会社本間ゴルフ酒田工場の所有となり、現在は同社の研修施設などに活用されています。一般非公開。
 
高橋まゆみ=取材・文 斉藤貴子=写真
取材・撮影協力=株式会社本間ゴルフ、酒田市立資料館


■「庄内庭園探訪」バックナンバー


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アトク先生の館を訪ねて
2003年5月号[酒田市]
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