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 Home > バックナンバー > 「庄内庭園探訪」 > 土門拳記念館を訪ねて


月刊「SPOON」2004年1月号掲載

鶴岡市の致道博物館の敷地は、鶴ヶ岡城の三の丸にあたり、かつては庄内藩の御用屋敷があったところ。そこには、古庭園の姿を今に伝える、豪壮で端麗な大名庭園があります。晩秋の一日、致道博物館館長の酒井忠久さんと副館長の犬塚幹士さんにご案内いただいて、庄内藩酒井家の由緒ある庭園を、その歴史をひもときながら、散策させていただきました。

:::::  その10 :::::
鶴岡市

酒井氏庭園は月山林泉を配した
書院庭園。御隠殿から
座観する風景も美しく、
鳥海山を借景として作られたという。

 日本人が庭園を好むようになったのは、いったい、いつの頃からであろうか。最古の作庭秘伝書『作庭記』の成立年代すら、平安後期、鎌倉、室町と諸説がある庭の興りそのものは、寺院、貴族、大名などがその理想郷を求めて手がけたもので、商人階級に普及したのは、江戸中期以降ではないかと思われる。
  とすれば、現存する庭園の中で、「大名庭園」は、古庭園と位置づけられる。昭和51年、国の名勝に指定された、致道(ちどう)博物館内の庭園「酒井氏庭園」がそれにあたる。ここはかつて鶴ヶ岡城の三の丸があった場所であり、古くは庄内藩の広壮な御用屋敷が建てられていた。
  作庭年代は不詳であるが、江戸時代前期頃と考えられている。諸国の名石が帰り荷の綿積(わたつ)み石として運ばれてくるようになったのは、日本海海運が盛んになった江戸中期以降といわれている。この庭園には灯籠が一基もないこと、石が地元産であることなども、作庭年代と無関係ではないと思われる。
  庄内藩の歴史を遡(さかのぼ)っていくと、その居城、鶴ヶ岡城は、古くは大宝寺城と呼ばれていたが、慶長8年(1603)、山形城主、最上義光(よしあき)によって改称された。その後、最上氏の改易にともない、酒井氏が庄内藩主となったのは元和8年(1622年)、三代・忠勝(1594-1647)の時であった。以来、徳川四天王の筆頭を祖とする譜代大名の酒井家は、出羽庄内十四万石の領主として、版籍奉還まで約250年にわたって、この地を治めてきた。
  三代・忠勝は、小堀遠州(こぼりえんしゅう)(1579-1647)と親交があった。酒井家に伝えられてきた中国宋時代の禅僧、無準禅師(ぶじゅんぜんじ)の書「潮音堂(ちょうおんどう)」には、こんな逸話がある。忠勝が遠州の茶会に招かれた折、持ち帰り、その後、遠州の元に金三千両を届けた。一字千両に値するというわけである。
  遠州といえば、茶人としてばかりでなく、作庭家としても名声を馳せたことで知られている。江戸時代は、空前の庭園ブームである。とすれば、「酒井氏の庭園」に忠勝がなんらかの助言を請うたということはなかったのだろうかと、ふと思ってみた。歴史の間には、語られない真実というのもあると、そんな気がする。
  当代・忠明(ただあきら)氏にいたるまで、庄内藩酒井家の善政は、領民の気質さえも温厚にしている。八代・忠温(ただあつ))(732-1767)の頃、幕府の巡見使にしたがって奥羽地方を視察した地理学者、古川古松軒(ふるかわこしょうけん)(1726-1807)は、『東遊雑記(とうゆうざっき)』の中に「酒井候の政治は正しく、清川よりは村々に至るまで民家のようすはきれいである。(中略)人の住む家も美しく上上国(じょうじょうこく)の風土である。これまで通行してきたいろいろな所とてもこれには及ばない。すぐれた土地柄の第一だとみなが評判したのである」と記している。
  中興の名君とされる九代・忠徳(ただあり)(1755-1812)は、城下町つくり、新田開発と共に、文化2年(1805)、藩校致道館を創設。徂徠(そらい)学を教学とした「庄内学」による藩士教育に努めた。 
  十代・忠器(ただかた)(1787-1854)の治世、天保(てんぽう)11年(1840)には、越後長岡七万石への国替えを命じられたにもかかわらず、藩主を慕う領民たちの阻止運動「天保おすわり一件」により、とりやめになった。農民一揆といえば、領主に対する不満からの反乱であるのが常であることからすれば、異例の行為であったことがわかる。
  次の十一代・忠発(ただあき)(1812-1876)の文久3年(1863)の頃、庭園に面して、隠居所「御隠殿(ごいんでん)」が建てられた。「奥の座敷」では、能が催され、床下には、音響効果のため大瓶を据えたといわれる。
  当主・忠明氏の長男・忠久氏によれば、この庭は、池にいかだを浮かべて、魚つりやザリガニ取りをした遊び場で、冬には、築山でスキーを楽しむこともあったとか。
  昭和46年、「酒井氏庭園」は、京都の作庭家、田中泰阿弥(たいあみ)(泰治)氏によって、数年の歳月をかけて、入念に復旧整備された。田中氏は、庭園の構成が、江戸時代末期の『築山庭造伝』にある「真の築山(つきやま)」と合致することを指摘した。「これだけの庭が作られるについては、既にそれを必要とするだけの高度な文化の素地があった筈」(文化庁鑑査官・吉川需(もとむ))でもあった。
  730坪の「酒井氏庭園」。かつては、鳥海山を借景としていた。御隠殿から臨む座観式、築山泉水庭園である。池の向こう正面、築山の中ほどに石を立て、庭景の中心とし、左手の州浜に滝のように水が流れ込み、峡谷の風情である。右手には、亀頭形の名石(硅化木(けいかぼく)の化石)の出島があり、入り江としている。石組みに力強さがあることで、全体に静かな趣を見せているのである。「山をもて帝王とし 水をもて臣下とし 石をもて補佐の臣とす」(『作庭記』)があてはまる真の庭園である。
  この庭にたたずみ、詠まれた歌がある。「何なるかわからざれども何かあり おほいなる力に引かれけるわれ」(菅原兵治(すがわらひょうじ)、1899-1979)。見えない力、大きな包容力のような優しさは、歴代の藩主、酒井氏の人格と重なるように思える。
  庭園築山の竹林や松、枝垂(しだ)れ桜、護岸の躑躅(つつじ)や椿、山茶花(さざんか)。池に桃色と白の睡蓮が花開く季節は、華やかな庭となる。 
  庭園の対岸、「御隠殿」側には、阿弥陀来迎板碑(らいごういたひ)があり、石仏が点在する。これは、明治以降に収集されたものという。同じ高さにしゃがみこみ、穢れない石仏のお顔を拝していると、こちらまで穏やかな面持ちになる。
  近年、寄贈されたという芭蕉の句碑「珍らしや 山をいで羽の 初茄子(はつなすび)」。これは、松尾芭蕉が鶴岡で詠んだ句を、地元の俳人、長沢千翅(せんし)が享保年間(1716-36)に建立したもので、「奥の細道」の句碑としては、県内でも古いものである。
  戊辰(ぼしん)戦争の時、庄内藩は、最後まで官軍に抵抗したにもかかわらず、寛大な処遇がとられた。それは、藩士、菅実秀(すげさねひで)(1830-1903)と西郷隆盛との篤い交流があったからである。こうしたかかわりから、たびたび鶴岡を訪れた副島種臣(そえじまたねおみ)は、庄内人の気風を「沈潜(ちんせん)の風(ふう)」とたとえた。独自の教育と文化を培ってきた風土に敬意を表した言葉であろう。
  帰り際、柊(ひいらぎ)の古木があると案内された。その葉には、ぎざぎざがない。まるで椿の葉のようなのである。柊は、樹齢を重ねるにしたがって、角がとれて丸い葉となる。人も、かくありたいと、そんな思いを抱きながら、「酒井氏庭園」をあとにした。
庭園築山の竹林や松、枝垂れ桜、護岸の躑躅や椿、山茶花。
池に桃色と白の睡蓮が花開く季節は、華やかな庭となる。
 
財団法人 致道博物館

【開館時間】
9:00〜17:00
【休館】
毎週月曜および年末年始
【入場料】
一般700円、小中学生280円、
20名以上の団体600円
【住所・電話番号】
鶴岡市家中新町10-8
Tel. 0235-22-1199

 昭和25年、旧庄内藩主酒井氏が地方文化の向上発展に資することを目的に土地、建物、伝来の文化財などを寄付し、財団法人以文会を設立。翌年、博物館施設として運営されるようになり、致道博物館と改称されました。以来、地方博物館として郷土に立脚し、文化と歴史を掘り起こす事業を中心に活動しています。「致道」の名称は藩校致道館に由来し、典籍、版木、祭器など多くの藩校資料の保存とともに、藩学の伝統を受け継ぐ古典の研究も行われています。
 博物館の敷地は、鶴ヶ岡城の三の丸にあたり、古くは庄内藩の広壮な御用屋敷がありました。幕末に建てられた藩主の隠居所「御隠殿」の奥座敷から望む酒井氏庭園。作庭年代は明らかではないが、大名庭園の姿を伝える貴重なものとして、昭和51年に、国の名勝に指定されています。
 
高橋まゆみ=取材・文 板垣洋介=写真
取材協力=(財)致道博物館


■「庄内庭園探訪」バックナンバー


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アトク先生の館を訪ねて
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2004年1月号[鶴岡市]
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