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 Home > バックナンバー > 「庄内庭園探訪」 > 浜田の清亀園を訪ねて


月刊「SPOON」2003年12月号掲載

酒田市立浜田小学校のすぐ近くにある「清亀園」は、明治時代、天正寺町の伊藤家の
別邸として建てられたもので、その庭園は酒田の名匠、山田挿遊によって築庭されました。現在では酒田市の生涯学習施設として、広く一般市民が活用できるよう開放されています。晩秋の午後、伊藤珍太郎さんの名著『酒田の名工名匠』を手に清亀園をお訪ねしました。

:::::  その9 :::::
酒田市

山田挿遊は、庭園内に
田を配して点景としたという。
水面に映る月を賞でるというのは、
いかにも絵画的である。

 明治の中頃、酒田には、庭造りの名手といわれる庭師、山田挿遊(そうゆう)(1830〜1896)がいた。挿遊こと市十郎は、天保元年、通称「興屋(こや)の山」と呼ばれる、酒田の浜畑に生まれた。ここは古くは柏木山と呼ばれていたという。彼がどのようにして作庭を学んだか定かな記録はないが、興屋の人々は「挿遊は京都で修行したそうだ」と語り継いでいる。それ以前は「龍石という庭師が地元におってその人の教えをうけたという」(伊藤珍太郎著『酒田の名工名匠』)
  挿遊作といわれる浜田の「清亀園(せいきえん)」は、明治二十四年、七代伊藤四郎右衛門の別邸として築造された。「松月館」と呼ばれる建物の棟梁は、奥泉長右衛門である。この母屋に沿って庭が造られた。四郎右衛門の孫にあたる伊藤珍太郎氏は、その著書に「挿遊は、古い陣中床几(じんちゅうしょうぎ)を庭の中央に据え、それに腰をおろして八方睨みの指図」をしていたこと、「白ひげの老人であった」ことを聞き書きしている。五十人もの弟子を抱えていた挿遊が、綿密な構想を練りながら差配していた姿がうかんでくる。
  当時の浜田地区は、湿地帯であった。農地が大半を占めていたのではないだろうか。この地での作庭にあたって、挿遊は、庭園内に田んぼを配して点景とした。水を張った田に月を映すという趣向がとられたのである。長野県更級冠山(さらしなかんむりやま)の棚田で観られるという「田毎(たごと)の月」の情景がふと思われる。水面に映る月を賞でるというのは、いかにも絵画的である。
  この庭の依頼者であった伊藤家は、酒田の本間家に次ぐ素封家(そほうか)で、初代は、江戸時代元禄の頃、大山から酒田に移り、米屋町(こめやまち)で油屋を営んでいた。文政十二年(一八二九)には、大庄屋格となった。七代四郎右衛門は、嘉永六年(一八五三)の生まれで、維新後、松ケ岡の開墾や北海道開拓にも参加した。酒田に帰ってからは、「ひげのだんな」と呼ばれ親しまれた。相撲が好きで、東京から相撲一行が来た時には、「相馬屋」から料理をとって振る舞った。また、養老庵萬寿と号する俳人であった他、能や将棋を愛好する趣味人でもあった。こうした財力に支えられて「清亀園」は、完成したのである。
  その後、伊藤家の衰退により、地方製材業の先覚者として知られる、酒田市船場町、北原直次郎(一八七一〜一九二七)の所有となる。七代四郎右衛門の孫、珍太郎氏の言葉を借りれば「わたし宅が大正の終わりに産を失い東京にさった」とあり、大正十三年に四郎右衛門が没した頃、北原家が譲り受けたのではないだろうか。しかし、直次郎は、昭和二年に没しており、数年間所有の後、池田亀三郎(一八八四〜一九七七)に渡ったと考えられる。このため、資料の多くは、北原家の記録が省かれているのであろう。
  亀三郎は、明治十七年、四郎右衛門と同じ浜町に生まれている。東京帝国大学を卒業後、三菱合資会社に入社。九州、北海道の炭鉱勤務などを経て、昭和三年、常務取締役に就任。戦後は、三菱油化(株)を設立して社長となり、日本の石油化学工業の振興に手腕を発揮した功績により、勲一等に叙せられた。池田家では、長年ここを別荘として使用していた。庭園内には、池田亀三郎の顕彰碑が建立されている。兄は、高橋由一(ゆいち)の影響を受けた洋画家で、写真家の池田亀太郎(一八六二〜一九二五)である。
  昭和五十四年、この日本庭園が、酒田市民に公開されることになった。名園の誉れ高い庭園でありながら、個人所有であったため、一般には、ほとんど知られることがなかった。
  五十四年といえば、酒田大火の三年後のことである。当時の市長、相馬大作氏は、取得の経緯をこう語っている。「買収当時は、大火復興のため財政事情の苦しい時期だったが、いま市民の方がたが喜んでおられる姿を見ていると、よかったと思っている」(相馬大作著『草鞋(わらじ)をつくって二十年』)
  この時、「清暉園(せいきえん)」の名称を「清亀園」とした。所有者であった池田亀太郎の「亀」、本間家別荘「清遠閣(せいえんかく)」の庭園「鶴舞園(かくぶえん)」に呼応させる意図があった。
  かつて、この庭は、「清暉園」と称されてきた。「清暉」とは、清らかな光の意である。五世紀の初め、陶淵明(とうえんめい)と共に活躍した中国の詩人、謝霊運(しゃれいうん)の漢詩「石壁精舎(せきへきしょうじゃ)還湖中作」の一節に由来する。謝霊運は、自然の風景を詠う山水詩の開祖といわれ、六朝(りくちょう)随一の詩人で、「文選(もんぜん)」に四十首と最も多く取り上げられている。
  この詩は、左遷される途中、故郷に立ち寄った時の作品である。「昏旦(こんたん)に 気候変じ 山水 清暉を含む」。昏は、夕暮れ。旦は、朝方。気候は、空気や朝の様子。夕暮れと朝では、空の気配が変わる。清らかな光によっ
て、情景も違ってくるの意である。「清暉 能(よ)く人を娯(たの)しましむ 遊子(ゆうし) やすんじて帰るを忘れる」。清らかな光の微妙な変化は、人を愉しませ、私は、安心して帰るのを忘れるほどである。「清暉」の語をしりとりとする手法がとられている。
「清亀園」の現在の面積は、およそ九百坪であるが、築庭当時は、田んぼを有していたことから推測しても、もっと広大であったはずである。
  庭の形態は、建物から眺める座観式の廻遊庭園である。池に架かる凸型の橋は、水景を引き締める要所となっている。植栽は、二百五十本に及ぶ樹木が中心となる。なかでも、松などの常緑樹が多く、四季を通じて緑の濃い庭である。護岸の五葉松(ごようまつ)の枝ぶりも見事で、椿や山茶花(さざんか)、躑躅(つつじ)、紫陽花(あじさい)といった季節の花が彩りとなる。
  前庭にある梅は、紅白の花をつけるおめでたい木として知られている。地元の人々は、この梅を「おもいのまま」と呼んで、花の咲く頃を心待ちにしている。
  庭全体に名石がバランスよく配されているのが、この庭の見所でもある。さらに、建物から庭園へ飛び石が打たれ、歩みの経路を確立していることも、この庭の構成する要素といえるのだろう。石の踏み面(づら)となる天端(てんぱ)に安定が保たれている。飛び石は、桃山時代に茶席への道すがら石を打ったのがはじまりと聞く。
「清亀園」の玄関には、阿吽(あうん)の「石獣像(獅子)」、庭園内には、李朝時代の石造人物像、文官、儒者、道教僧などが据えられている。これは、昭和五十六年に市が購めたものであり、挿遊作庭の構想にあったものではない。所有者の変遷は、庭園の様相をも変えていく。
  四阿(あずまや)に佇んで、景に浸りながら、挿遊が手がけたという、もうひとつの名園「寄暢亭(きちょうてい)」を訪ねてみたいと思いを馳せた。
紅白の花をつける前庭の梅は「おもいのまま」と呼ばれ、
おめでたい木として、人々は花の季節を心待ちにしている。
 
清亀園

【開館時間】
火曜〜土曜 9:00〜22:00、
日曜 9:00〜17:00
【休館】
毎週月曜と国民の祝日、
年末年始(12/29〜1/3)
見学は無料
【住所・電話番号】
酒田市浜田1-11-13
Tel. 0234-23-0388
施設の使用申し込み--------
酒田市中央公民館
Tel.0234-24-2991

「清亀園」は、明治24年(1891)、酒田の本間家に次ぐ大地主と言われた伊藤四郎右衛門家の別邸として築造されました。別邸の建築と同時期に、酒田の山田挿遊(市十郎)によって作庭された庭園は「清暉園」と呼ばれていました。山田挿遊は当時、50数名の門下を擁し、酒田の浜畑の小山家別荘「寄暢亭」の庭園を手掛けた名庭師として知られています。「清亀園」は当初、庭園内に田んぼもあったほど広大なものでしたが、時代とともに縮小され、現在では、約250本の庭木と池、9基の石灯籠、大小さまざまな庭石が見事に配置されています。その後、池田亀三郎氏の所有となり、昭和54年に酒田市が取得。現在は、酒田市の生涯学習施設として一般に開放されています。
 
高橋まゆみ=取材・文 板垣洋介=写真
取材協力=酒田市中央公民館、酒田市文化課、酒田市都市計画課、酒田市立資料館


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