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 Home > バックナンバー > 「庄内庭園探訪」 > 玉川寺庭園を訪ねて


月刊「SPOON」2003年10月号掲載

羽黒山の大鳥居の手前を右手に入ると、「九輪草(くりんそう)の寺」と呼ばれて親しまれている曹洞宗・国見山玉川寺(ぎょくせんじ)があります。羽黒の自然の懐に抱かれた庭園には、月山の湧水が流れ、四季折々に咲く可憐で優しい花が目を楽しませてくれます。夏の陽差しの残る午後、鎌倉時代からの歴史を持つ古刹(こさつ)の庭園を訪ねました。

:::::  その7 :::::
羽黒町
(現鶴岡市)

亀は蓬莱島を背にのせ、
鶴は仙人の乗り物。鶴は千年、
亀は万年と不老長寿の願いが
託されているのであろう。

 羽黒山の麓、玉川寺。庭園の前に佇みながら、時の移ろいは、陽の傾きであると思った。気が遠くなるほどの季を重ねて、この風景は形作られたに違いない。日常の喧騒から隔たる安らかなこの場所に在るのは、欲や驕りといった雑念からの開放であろうか。
  開山は、鎌倉時代、建長3年(1251)、曹洞宗の開祖、道元禅師の高弟であった了然法明禅師によるものと伝えられている。了然禅師は、朝鮮の百済に生まれ、中国、径山寺で修行の後、日本へ渡来。羽黒山に参詣し、観音の聖所があったこの地に庵を結び、玉泉寺とした。
  この寺の本尊、聖観音菩薩は、「南無観世音菩薩」と唱えると、世の中の音をしっかりと観(き)き、救いの手をさしのべる慈悲の菩薩である。 鎌倉期以後、室町期にいたる経緯
は、記録にないが、享徳2年(1453)、新潟県村上の耕雲寺より南英謙宗禅師に願い、「玉川寺」として再興された。
  南英禅師が著した『玉漱軒記』には、寺の再興と作庭の経緯が記され、「小屋を設けて忽室とし、玉漱軒と名づけ、その南面した軒先きに曲池をうがち、玉川の水を引きいれた」とある。この庭は、「法に適う作庭ではない」との指摘に対し、南英禅師は、「法とは、人が作るもの。どれが正しいということはない。自然を範としての作庭」と応えたという。 現在の玉川寺庭園に改築したのは、江戸時代初期、羽黒山の第五十世執行・別当であった天宥である。天宥別当は、真言・天台・臨済・念仏の四宗兼学を天台宗に統一。参道に石段を設け、松や杉の植樹を行い、境内を整備して、興隆に努めた羽黒山中興の祖である。
  後年、庄内藩主酒井家との増川山をめぐる争いから、伊豆新島へ流罪となり、彼の地で遷化した。
  天宥別当は、数々の事業に手腕を揮った傑僧であったばかりでなく、書画、彫刻にも優れ、作庭も手がけた。玉川寺の他、羽黒山本坊、南谷の寺、荒沢寺の聖之院、手向の三光坊、鶴岡の本鏡寺の庭を築いたとされるが、現存しない。
  玉川寺の庭は、本堂、庫裡の東側に位置する池泉回遊式蓬莱庭園である。南北に長い瓢箪形の池泉には、鶴、亀をかたどった石組があり、3つの中島は、それぞれが橋でつながれている。対岸に渡す舟泊まり石に、舟泊まりを重ねて、理想郷蓬莱山へ向かう光景としている。蓬莱山は、中国の伝説で、仙人が棲む霊山のことで、この庭では、中央の立石を蓬莱山と見せている。亀は、蓬莱島を背にのせ、鶴は仙人の乗り物であり、「鶴は千年、亀は万年」と不老長寿の願いが託されているのであろう。
  池泉の南側は「陰」、北側は「陽」を表し、それぞれに、登り龍と降り龍の灯篭が立つ。天宥作と伝わる石灯篭は、天台密教の曼荼羅を表現した四角窓が特徴である。池泉に置かれた石彫「蛙」は、苔むした緑の姿が本物を思わせる天宥作。作者は、蛙を好んだと聞き、このユニークな作品に人柄をうかがうようである。
  かつては、もっと水量があったのだという築山から落ちる滝は、庭に清涼感を添えている。
  庄内平和観音三十三霊場第十七番札所でもあるこの寺では、庭園の借景をなす山のあちらこちらで石仏と出会うことができる。お参りを楽しみながら、頂の地蔵堂まで散策し、風そよぐ竹林に出るというのが行程であろう。筍を生育させるため、葉が黄色くなる春4月は、「竹の秋」である。これからは、青々とした葉が茂る「竹の春」を迎える。赤に黄色に紅葉する木々とは対照をなす趣が面白い。
  玉川寺は、花の寺としても親しまれている。特に「九輪草」が見事なのだと聞く。斎藤広海副住職に伺うと、「もともと自生していたものを、30年ほど前から、母が殖やしていったものです。年々殖え、毎年5月中頃には、白や薄桃色、濃い桃色と色とりどりの花が一面に咲きます」。花の重なりが五重の塔の九輪に似ていることから、この名がついたという可憐な花。訪れる人は、いつしかここを「九輪草の寺」と呼ぶようになった。
  しかし数年前、日照りが続いた年、全国でも珍しいとされるこの花の群生は、激減した。花の命を惜しむ人たちが、「うちにあるから」と次々苗を持ち寄って、九輪草は、再び植栽された。とはいえ、咲きそろうには、3年を要するため、来年の春を待たなければならない。
  九輪草の季節は、来園者が多い。中には、「株を持ち帰る花盗人もいる」という。「持ち寄る人」と「持ち帰る人」さまざまな人の心の在り様が交差する。
  他にも、春には、桜。初夏の躑躅、花菖蒲。秋には、萩、秋明菊と季節の表情がある。私が訪ねた9月十五夜の頃には、赤い実をつけた珊瑚樹、淡紅色の秋海棠、青紫色の沢桔梗と、庭のそこここに彩りがあった。
  こんなはなしを聞いた。つい最近まで白い花を咲かせていた老木の桜。その歴史は、開祖了然禅師にまで遡る。了然禅師がこの庭を巡り、坐禅石の所まで来ると、煙が立ち込めていた。そこで、近くの湧き水をかけ煙を消し止めた。同じ頃、了然禅師がいた径山は、火災に遭っていた。
  この時の消火が了然禅師によるものであることが本山に伝わり、その時返礼の袈裟が送られた。港へその品を受けに行った僧は、「寺に着くまで開けてはいけない」と言われたが、途中で開けてしまう。すると箱の中から白い鳥が飛び立った。困惑した僧が寺に戻ると桜の木に袈裟が掛かっていた。それから、この桜は、「袈裟掛け桜」と呼ばれるようになった。
  庭園の歴史に思いを馳せ、巡っていると、芭蕉がこの地を訪れたことがふと、よぎる。元禄2年(1689)であるから、玉川寺の庭園を完成させた天宥がこの地を去って20年ほどが経っていた。
「ありがたや雪をかをらす南谷」。芭蕉が宿した南谷の別院は、玄陽院である。天宥が建築、作庭したこの寺の前身、紫苑寺はすでに焼失していた。『出羽三山史』には、「天宥法印の構築にかかる建物は既になく、院をめぐって作った三方の泉水には、遠く吹越沢から引き入れた渓水が淙々と流れて芭蕉の詩情をゆり動かした事であろう」とある。芭蕉は、天宥の業績を偲んで「そのたまや羽黒にかへす法の月」と詠んだ。
  芭蕉が玉川寺を訪れたという記録はない。しかし、天宥の作庭の一端に触れたことだけは確かである。
  玉川寺の庭園は、さまざまな背景に描かれた幽玄の一幅を鑑賞する名園なのである。
五重塔の九輪に似ていることから、その名がついたという
可憐な花に寄せて、九輪草の寺と呼ばれるようになった。
 
国指定名勝 玉川寺庭園

拝観料
大人300円、高校生200円
小中学生150円(団体割引あり)
庭園を眺めながら、
お抹茶と和菓子をいただけます(400円)
国見山玉川寺
山形県鶴岡市羽黒町玉川字玉川35
0235-62-2746

 出羽三山のふもとにある玉川寺は、鎌倉時代、曹洞宗の開祖、道元禅師の高弟、了然法明禅師によって開山されたと伝えられています。了然法明禅師は朝鮮半島の百済国の生まれで、中国の径山寺で修行した後、日本に渡来し、羽黒山に参詣した帰り道、当地に観音堂を拡めて、寺院の基礎を築いたと言われています。その後、室町時代に再興され、現在に至っています。
 庭園が現在の姿に改築されたのは江戸時代初期で、羽黒山の別当、天宥によると言われています。出羽三山中興の祖、天宥は植林、開田などを奨励、書画、彫刻、作庭にも才能を発揮しました。様式は池泉廻遊式蓬莱庭園と言われています。国指定名勝。御本尊は聖観世音菩薩で、荘内平和観音三十三霊場第十七番札所となっています。
 
高橋まゆみ=取材・文 板垣洋介=写真


■「庄内庭園探訪」バックナンバー


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アトク先生の館を訪ねて
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