毎日の暮らしに、ほんのひとさじの夢を探して、
私たちはこの街に住むあなたを応援します。
スプーンネット
トップページへ 特集 バックナンバー

 Home > バックナンバー > 「庄内庭園探訪」 > 蕨岡の山本坊を訪ねて


月刊「SPOON」2003年6月号掲載

遊佐町の旧上寺(うわでら)地区は、鳥海山蕨岡修験(わらびおかしゅげん)の三十三宿坊とその門前の村落として、栄えたところ。歌人、鳥海(とりのうみ)昭子さんの生家「山本坊」の庭園は、ご両親の跡を弟の朝弥(ともや)さんご夫妻が受け継いで、丹精込めています。初夏には白い山百合が数百本も咲き競う山本坊庭園を、春爛漫の桜舞い散る穏やかな日に訪ねました。

:::::  その3 :::::
遊佐町

 

樹齢三百年ともいわれる自生の藪椿は、この宿坊の
たどった歴史の趨勢を見つめてきたのかもしれない。

 
 秋田と山形の県境、「出羽富士」鳥海山に連なる出羽山地に位置する遊佐町蕨岡「山本坊」は、鳥海山蕨岡修験三十三宿坊のひとつであった。
  四月半ば、山本坊庭園の椿は、鮮やかな紅の花をたわわに咲かせていた。樹齢三百年ともいわれる自生の藪椿(やぶつばき)は、この宿坊のたどった歴史の趨勢(すうせい)を見つめてきたのかもしれない。
  春の木と書く椿は、神宿る霊力ある花木として、古来より珍重されてきた。咲き姿のまま地に落ちる花の潔さに心惹かれた。
  昭和58年11月、放浪の歌人、現代短歌の異才と称された山崎方代(1914―85)がこの地を訪れ、山本坊に二泊した。その折、方代は「山本坊の庭の椿はすでにもう九萬八千七百の蕾をもてり」と詠んだ。老当主、鳥海三治郎氏は「九萬八千七百とは、よく出来た。これは縁起がいい歌だ」と喜んだという。今年4月16日、方代を偲ぶよすがとして、庭園内にこの歌の歌碑が建立された。山本坊を訪ねたのは、その翌日のことだった。
  蕨岡は、鳥海修験宿坊の村落として、慶長年間(1597―1615)には領主、最上義光(よしあき)より八十九万石、元和8年(1922)、藩主、酒井忠勝より百十八万石余の刻印状を賜っていた。中でも山本坊は、鎌倉時代より、庄内一円に3000の霞(かすみ)(檀家)をもつ筆頭の家柄であった。明治初年の神仏分離、廃仏毀釈(きしゃく)の頃より、大物忌(おおものいみ)神社の神官として、鳥海姓を名乗るようになる。
  この山本坊の庭園は標高110メートルの地にあり、その眺望は贅沢なまでに美しい。出羽山地の松岳中腹の斜面をそのままに生かした造りは、雄大な自然庭園といった趣である。庭石は、どれも隣接する出羽山地の岩石で組まれている。自然との見事な調和、バランスを感じるのは、そのためであり、配石の活きた石組である。
  前方の池には、二つの浮島があり、鶴島、亀島と呼ばれている。「鶴の島亀の島とも父母がすこやかに居てわれのふるさと」。この家の長女、鳥海昭子さんの歌である。
  昭子さんは、昭和4年生まれ。歌集『花いちもんめ』で、昭和60年、第29回現代歌人協会賞を受賞した歌人。19歳で上京、苦学して国学院大学国文科を卒業した。その後、養護施設の保母として、64歳まで勤めた。その間の交流をまとめたエッセイ集『花かんむりの子どもたち』や、退職後の大病の記録『語り部歌人鳥海昭子のほんのり入院記』などの著書がある。
  取材の日、現当主、朝弥さんと、方代歌碑建立のため帰郷していた昭子さん、お二人の話を伺うことができたのは、思わぬ光栄であった。昭子さんの著書にたびたび登場する弟、朝弥さんが、話の端々で「ねえさん、ねえさん」と声をかける姉弟の交流は、傍にいる者を温かくさせた。
  一緒に散策する広い庭園のそこここには、幼少の頃からの思い出がある。池に注ぐ滝の名は、「不動滝」。この下を掘ると、お金が出てくるという。おとぎ話のようなこの逸話に耳を傾けると、どうもそれは、修験者がこの滝つぼに投げ入れたお賽銭ということになるらしい。
  この滝には、もうひとつ名前がある。「恩水(おんすい)の滝」。それは、この村の村長を務めた「大泉坊(だいせんぼう)」、太田様こと太田俊賢氏への恩をこめた尊称である。太田様は、先祖代々、困った人のためには惜しみなく手をさしのべた。昭子さんもこの太田様に助けられた思い出がある。といっても、その恩ある人の名を知ったのは、それから20年以上も後のことだった。
  昭子さんが、10歳頃のこと、450段余りの石段を降りた鳥居の下の店まで、醤油を買いに行かされた。子どもの足では、片道でもゆうに30分はかかる道のりである。帰りの登り段で、重い一升瓶を置いて、ひと休みしようとしたその時、醤油瓶が後ろの石段にぶつかって割れた。醤油は、匂いを立ちのぼらせながら、「ジョジョジョジョー」とこぼれていった。成す術もなく泣き叫ぶ昭子さんに、見たこともない男の人がお金をくれた。「これで、もう一升買っておいで」。昭子さんは、その人のことをずっと、「天の神様」だと思っていた。大人になって、役場に勤めるようになった頃、ふとしたきっかけで、その人が太田様であったことを知った。
  現在、石段の頂上には、太田俊賢翁顕彰碑とその胸像が建っている。そして、いつの頃からか毎年4月29日、昭子さんの弟、朝弥さんが祭主となって「太田祭」が行われるようになった。昭子さんは、弟に訳を話して、醤油を供えさせて欲しいと頼んだ。
  庭園を覆う樹木を借景にして、庭木や花が多く点在する。赤松や椿といった常緑樹の中に、春さきがけて咲く黄色の連翹(れんぎょう)、花桃、桜、辛夷(こぶし)の白、椿の紅は、色鮮やかである。これからは、群れ咲く蓮華躑躅(れんげつつじ)の季節である。紫陽花(あじさい)、擬宝珠(ぎぼし)、山藤が待ちかねた季節を謳歌するように咲きそろう花咲き山の情景は、思っただけで、心浮き立つ。
  夏には、直径が20センチに及ぶ数百本の山百合が一面に香る。朝弥さんは「山百合の球根は、食べても絶品だが、これだけの群生は珍しいので、もっと増やしたい」と語った。「山百合の種は寒さを二年こえ暑さを迎えて芽を出すと聞く」(昭子)。
  秋には、紅葉した葉が季節の終わりを告げる。鳥海山麓の懐に抱かれるようにして在るこの庭園は、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」と、人の一生とも重なり合う、四季の変化を織り成している。これだけの花木に覆われながら、それぞれが日向に日陰に所を得て生育する「なずみ」の庭であることが嬉しい。
  朝弥さんは、友人たちの手を借りて、泉水から10メートルほど登ったところに、小舎を建てた。正面には「遊天楽」と書かれた古木の看板が掛けられている。広さは30畳ほどで、南西向きのガラス窓の眼下には、庄内平野が広がり、蛇行する日向川は、日本海へ注ぐ。左手には、出羽三山へ連なる雄大な尾根が続く。まさに、天上に遊ぶが如く、至福の楽しさがここにはある。
「十一月の声を聞けばみぞれが降り、十二月には根雪になった。雪は上から降るばかりではなく、シベリヤから日本海を超えて直接吹いてくる風に横からも雪が降る。風速二十五メートルはあたりまえのこと」(鳥海昭子著『あしたの陽の出』)という厳しい自然の地にあって、次々と咲く花は、それぞれが時を得たように音を奏でる。それは天を仰ぐシンフォニーとなって、鳥海山麓に響き渡る。
  山本坊は、花歌う彩りの庭である。
鳥海昭子さんは、生家に思いを馳せて、こう歌っている。
「鶴の島亀の島とも父母がすこやかに居てわれのふるさと」
 
山本坊

(鳥海朝弥方)
遊佐町大字上蕨岡字松ヶ岡20
電話:0234-72-2539

 遊佐町の旧上寺村(現在の蕨岡地区)は、出羽山地の松岳の中腹に位置し、鳥海山の信仰登山口の一つ「蕨岡口」として、鳥海山蕨岡修験の三十三宿坊とその門前の村落として繁栄した。蕨岡の大物忌神社の神職を代々勤める鳥海家は、蕨岡修験三十三坊の筆頭家格として、宿坊「山本坊」を営んできた。山本坊庭園の歴史は古く、庭園内の池から、修験者が投じた古銭が発見されると言われるが、造園に関する記録はいまだ発見されていない。庭園には桜や椿、水芭蕉、初夏には数百の白い山百合の花が咲き競う。現当主、鳥海朝弥氏が庭園内に建てた「遊天楽」からは庄内平野と日本海を一望できる。現在、庭園は鳥海夫妻が手入れし、一般開放されている。遊佐町出身の歌人、鳥海昭子さんは山本坊の長女で、朝弥氏の実姉。山梨県左右口村出身の放浪の歌人、山崎方代(1914−85)が、放浪の最北限である山本坊に滞在して詠んだ歌の歌碑が今年4月16日、庭園内に建てられた。
 
高橋まゆみ=取材・文 板垣洋介=写真


■「庄内庭園探訪」バックナンバー


2003年4月号[三川町]
アトク先生の館を訪ねて
2003年5月号[酒田市]
本間家旧本邸を訪ねて
2003年6月号[遊佐町]
蕨岡の山本坊を訪ねて
2003年7月号[鶴岡市]
風間家旧別邸を訪ねて
2003年8月号[酒田市]
土門拳記念館を訪ねて
2003年9月号[鶴岡市]
菅家の庭園を訪ねて
2003年10月号[羽黒町]
羽黒町の玉川寺庭園を訪ねて
2003年11月号[酒田市]
出羽遊心館の庭園を訪ねて
2003年12月号[酒田市]
浜田の清亀園を訪ねて
2004年1月号[鶴岡市]
鶴岡の酒井氏庭園を訪ねて
2004年2月号[酒田市]
浜畑の寄暢亭を訪ねて
2004年3月号[酒田市]
本間美術館の鶴舞園を訪ねて

pageup▲



月刊SPOON編集部

山形県酒田市京田2-59-3 コマツ・コーポレーション内
電話 0234(41)0070 / FAX 0234(41)0080


- 会社概要 - お問い合わせ -
Home Page上に掲載している写真・テキストの著作権は、SPOON編集部およびその著者に帰属します。
無断転用(加工・改変)、ネットワーク上での使用等はご遠慮下さい。
このサイトに掲載しているものは全て、個人でお楽しみ頂くためのもので、著作権は放棄しておりません。